日本最古のハンバーガーチェーン「ドムドムハンバーガー」が注目を浴びています。最盛期の1990年代には全国で400近くあった店舗は、現在27店舗となり〝絶滅危惧種〟ともいわれていましたが、2018年に藤﨑氏が社長に就任してから、イベントに参加すれば即日完売、コラボ商品を販売すれば大人気。さらに2019年に発売した『丸ごと!!カニバーガー』はSNSでも大評判となりました。2021年3月には、コロナ禍であるのにも関わらず、決算で黒字化を達成し、事業再生の道筋をつけました。
9月16日のパイオニアセミナーでは藤﨑忍社長をお迎えし、オンラインと対面のハイブリッド形式でセミナーを開催しました。39歳まで就職経験のない主婦だった藤﨑氏が、どのようにして「ドムドムハンバーガー」を立て直したのか、その活力の源、事業再生のための信念や方法について語っていただきました。
株式会社ドムドムフードサービス 代表取締役社長 藤﨑忍 氏
東京都墨田区生まれ。青山学院短期大学卒業後に区議会議員の男性と結婚。主婦として子育てなどに奔走していたが、39歳で商業施設「渋谷109」のブティック店長に。5年間働いた後、2011年から東京・新橋に居酒屋を開店し、翌年には2軒目を出店。17年にドムドムハンバーガーの新商品開発担当として転職。18年8月にドムドムフードサービス社長に就任。
東京都墨田区で4人兄弟の3番目の長女として生まれ、厳しくも下町ならではの温かな家族に支えられて育った藤﨑氏。子供時代の夢は「お嫁さん」になることでした。短大を卒業して21歳で結婚、23歳で母に。専業主婦として人生を送るも、39歳のときに夫が選挙に敗れ、働きに出ざるを得ない状況となりました。
初めて就職したのは知人に紹介された渋谷109の小さなセレクトショップ。いきなり店長を任され、お店を経営することになりました。「売り上げはすぐに上がりました」という背景には、陳列の仕方や店内を清潔に保つことで、購買につながったといいます。陳列については、こだわりの強い社長とのバトルもあったとか。
「もともとドレスを中心に販売をしていたところからヤングカジュアルファッションに変わったため、社長の並べ方は色のコントラストが激しく、落ち着かない印象があったため、自分の並べ方と売り上げを比較して、どちらの並べ方がよいか説得しました。そうしたら、毎日見に来ては、並べ方を変えていく社長がいらっしゃらなくなりました(笑)」。
取り組みが評価されてか、入社から10か月後には専務に選出されました。
渋谷109での仕事で、藤﨑氏を最も変化をさせたのは、一緒に働く若い女子店員たちとの付き合いでした。
「髪を染め、濃いメイクをして、時には夜遊んでいても、純粋で、彼女たちなりに努力している姿から、固定観念だけで人を判断してはならないということを学びました」
それまでの人生で全く接したことのなかった、ギャルたちと接した時間は、自分の価値観や、物の見方を大きく変える機会になったと振り返ります。
充実した日々を送ってきたセレクトショップの仕事も、経営者にすると交わしていた約束を反故にされたこともあり、5年目にやめることになりました。
その頃、捲土重来を果たすために選挙の準備をしていたご主人が、脳梗塞を起こし、身体障害に。「この時ばかりは自分の人生を恨みました。しかし、私は生きていかなければいけないわけです。家族を守らなきゃいけません」。強い口調で語る言葉には、その時の苦労が偲ばれます。44歳になり、新たな人生が再び始まりました。
「39歳まで専業主婦でしたし、選挙をやるような家だったので料理だけは得意でした」。新橋の小さな居酒屋でアルバイトとして働き始めて数ヶ月後、幸運にもアルバイト先の斜め前の店が空いたことで、事業を起こすチャンスが舞い込みます。「本当は109で起業したいと思っていたんですけど、人気のある場所に入るのには順番待ちで埒があかないため、先に飲食業で起業をしようと思いました」。
しかし、なぜいきなり起業だったのか?それは、なんのスキルを持たない状況で一般の企業に就職しても 私立の学校に通う子供の学費や、夫の介護費をまかなうだけの給与をもらう事は出来ないと考えたからだといいます。
決意してからは資金集めに東奔西走し、ニュー新橋ビルの地下1階に家庭料理店「そらき」を開業するに至りました。
初めのうちは暇だったというお店も”どのお客様にも心を尽くす”という一心でやっていると、半年後には軌道にのり、1年後には予約を取らないと入れないお店になりました。しかし「せっかく来ていただいたのに入っていただけない。これではお客様が離れてしまうのではないか」と、繁盛とは裏腹に不安を覚えることもあったといいます。そうこうしていると、隣のゲームセンターがあくことになり、2店舗目を開業するに至りました。
結果として2店舗目も繁盛店となっていったことを振り返り「必要な知識を身に着け、絶対にその事業を成功させるんだという強い信念をもって他者を説得することは、自身の想像力と責任感を生み出し、自分が何かをやっていく時の糧になる」と話します。
「そらき」の開業から5年後、ダイエーグループから「ドムドムハンバーガー」を譲り受けた、レンブラント・インベストメントから仕事ぶりを評価され、ドムドム再生のための商品開発の相談が舞い込みました。顧問として契約を交わし開発したのがビームスのパーカーのプリントにもなった『厚焼き玉子バーガー』でした。
このハンバーガーが評判を集めたことと合わせ、関西の店舗へ調査に行った際にレポートを提出した熱意が評価され、ドムドムハンバーガーへの入社を強く勧められることになります。
この頃、自由な時間が生まれつつあったことから、「そらき」を譲渡し、ドムドムハンバーガーでの新たなスタートが始まりました。
入社して初めて迎えた決算は散々たる結果でした。
「そらきの皆が気持ちよく送り出してくれたのにこんな結果では…」と不安と焦りを覚え、経営に直接携われないものかと、「私に意見を言える立場にしてください」と何度も経営陣にメールを送ったといいます。「入社して数か月の人間がやることではないことは承知していたものの、私自身の目標は〝企業の再生〟。その目的の達成のためには、必要なことだと思い、自身の立場などまったく考えず、考えていた再生方法を何度も訴えました」。この大胆な行動について、周囲からは「よくそんな勇気がありますね」と言われたけれども、
新しい店舗、リニューアルしたロゴやユニフォームなど、外側が変わっても、ドムドムハンバーガーの運営の基本が変わらなかったら、改善できないという「不安」と、言葉のキャッチボールが無く、数字を羅列するだけの営業会議に対する「不満」。この二つを心に抱えていながらも、経営陣がそれを問題視していない状況に問題があることは明らかだったと振り返ります。
そうした勇気をもって取り組む姿勢が評価されたのか、代表取締役への提案が舞い込むことになります。意見を言える立場にしてほしいとは伝えてきたものの、いきなり代表取締役への抜擢。「この時ばかりは、まさかと思い、椅子から転げ落ちるかと思いました」。内心では驚きと戸惑いを持ちつつも、言ってきたことなので精一杯努めようと思ったといいます。
3年1カ月の間代表取締役を務めるなか、はじめの一年半はドムドムハンバーガーの進む道を探し、得られた経営指針を基に運営をしました。結果、コロナ中であっても2021年の3月期の決算で黒字化につながりました。
1.信頼関係の構築
社長としてドムドムハンバーガーの未来を考えるときに、まず実行したのはスタッフとの信頼関係の構築でした。週に4,5日は店舗を回り「現場の声をしっかりと聞くこと」、「本部からの声を優しく丁寧に伝えること」の2点を特に気を付けたといいます。
2.情報伝達の円滑化
情報の伝達と共有を円滑に進めるために、社内のグループラインを積極的に活用。「グループラインをプラットフォームとして利用することで、他店舗で行っていることを共有することができ、情報伝達の際に“上司−部下”という1対1の関係性から1対全員という状況を生み、結果会社全体の風通しがよくなりました」。
3.経営理念の共有
従業員に伝えた経営理念は2つ。1つ目は「ただおいしいだけではなく、そこに付加価値がある商品開発をし、調理にあたること」。2つ目に「訪れた方が、笑顔で帰ってもらえる店舗づくりをすること」。
価格帯の上で2極化するハンバーガー業界において、「ドムドムハンバーガー」は、低価格の業態でありながら、マクドナルドのようにはいかないため、無理に新店開発を進めるのではなく、まずは独自性を模索し、新しい客層を開拓していくことを成長の指針としました。
1.イベントへの積極参加
一昨年から昨年の初旬まで、声優のイベントやお祭りなどさまざまなイベントに出店し様々なコラボバーガーを販売。
「ドムドムの店舗があるのは、スーパーマーケットの中だけで、限られたお客様にしか届いていませんでした。そこで真価を測るのは難しいと考え、新たな客層に届けるためにはイベントに参加するべきだと考えました」。
ある人気声優のイベントで特徴的なハンバーガーを出すと、会場内で人目を引き、さらにSNSでの拡散されることで、これまでとは異なる客層へリーチすることに。予定していた1日500食を優に超え、2日で1900食以上売り上げました。
2.アパレルブランドとのコラボ
アパレルブランド「FRAPBOIS(フラボア)」とコラボレーションし、Tシャツやパーカーなどを展開。「なんでハンバーガー屋がアパレルなんてやるんだ」という反対の声は多かったものの、結果ドムドムのブランドとしての守備範囲の広さ知ることにつながりました。ドムドムハンバーガーがどのようなスタイルで認知されるのかを調べ、ドムドムのアイコン「どむぞうくん」の可能性を知りたいということに基づいた作戦は、ハンバーガーチェーンの枠を越え、新たな世界を創ることになりました。
3.六本木の高級イタリアンを貸し切ったイベントを開催
日本生まれのハンバーガーということで、和牛を使ったハンバーガーや、あきたこまちを使ったバンズを考案。「これもドムドムの新しい世界を広げたと、SNS上で話題になりました」。
ポップアップのイベントなど多方面で成長をするドムドムハンバーガーについて、話題創出のためではなくて、ブランドの独自性を模索する中でバーガーショップはこうあるべきとという固定観念にとらわれることなく、広い視野を持ったチャレンジが消費者の皆さんの心に刺さるのだと藤﨑氏は分析します。
また、拡散された要因については、顧客が持つドムドムハンバーガーという懐かしいブランドの思い出が作りだす愛着や期待が、絶滅危惧種を救う体験ができる〝体験型関係性〟として、今の時代に合っているからなのではないかといいます。
ドムドムハンバーガーの独自性を模索する中で、消費者に愛されているブランドだということを逆に気付かされたと話す藤崎氏。事業再生というものを“再生の意義のある大切な宝物を拾うこと”と認識する上で、傾いた会社を元に戻す為に必要なことは強引な新規事業やリニューアルではなく、改めて自社のブランドを見直し、その可能性を見つけてあげることだと話します。
コロナ禍を乗り切る為に、まずは従業員の安全を守ることを優先し、その一方で生命の危険を感じながら日々を過ごされているお客様に対してドムドムハンバーガーとして何ができるのかと深く考えたといいます。
全国的にマスクが不足する中で、まず着手したのは従業員のマスクの確保。いち早くマスクを入手し、「コロナ禍でも一生懸命に働いてくれてありがとう」と手紙を添えて全国の従業員へ送付していきました。また、従業員を少しでも元気付けるために、ドムドムのオリジナルマスクを製作し、社会貢献の一環という思いで、350円でさりげなく店舗に置いたところ、SNSで拡散され、お店にはマスクを求めて長蛇の列が並ぶほどの反響となりました。「本末転倒なんですよ。社会貢献のためにマスクを売ったら、密を作り出してしまったんです。(笑)」
元々利益を求めて作ったわけではなかったため、在庫もなく、店舗は大混乱に大急ぎでECサイトをつくるなど、お客様のニーズにこたえるための事業が始まりました。新たなことに挑戦していた中では、「小さなバーガーチェーンが物販なんか行うべきではなかったのかな」と自問自答しました。しかし、その時急遽作ったECサイトが今ではアパレルから雑貨、小物まで販売するように成長し、マスクについては累計で16万枚販売するに至りました。
大手チェーンのように、モバイルオーダーといった、非接触型の販売ツールを持ってなかった、ドムドムハンバーガーではあえて、デリバリーに注力することはしませんでした。各店の営業規模が小さく、量産オペレーションをするための、機材的にも人材的にも身についていないということが最大の理由だと話します。無理に受注して店舗が混乱し、お客様が並んでしまったところに、ウーバーイーツが来てパッと持っていくようなことがあったら、すごく気分が悪いのではないかと。
一方で営業時間の短縮や、人件費のコントロールがうまくいっていたため、営業利益的には予算にのっとり推移し、新店舗開発には問題なかったといいます。
またドムドムハンバーガーでは『おうちでドムドムセット』の販売や、自社のハンバーガーの作り方の動画発信など、家にいてもドムドムを楽しめるようにしたのが好評となり出店の依頼を多く受けることにつながりました。
マスクと共に大きな反響があったのはコロナ禍での新しい出店でした。多くの出店依頼を受けながら、選んだのは〝浅草花やしき〟。花やしきは日本生まれの遊園地であるということで、ドムドムハンバーガーと共通のものがあったこと。そして浅草、東京、日本の復興という意味をこめ、「復興していくなかで共に創っていくことができる」と思い、出店を決意したといいます。
また2021年7月2日に宮城県のイオンモール新利府店北館に、新店舗をオープンした時は藤﨑氏に特別な思いがありました。
「本年は、東日本大震災から10年目の節目の時であります。10年前は私自身、起業と主人の病で本当に何もできなかったんです。そのことがすごく心に残っていました。そして、ドムドムハンバーガーは10年前と言いますと店舗がどんどん減って来た頃です」。宮城県のイオンから話が来た時は、お店を見に行く前から「絶対ここでやらせていただきたいと思った」といいます。自身の人生が劇的に変わったこの10年を振り返り、同じように苦労をしてきた宮城県の皆様に、「ドムドムハンバーガーで元気を創出できたらうれしい」と思い、出店を決めました。
「どこに出店するかというより、どんな意味を持って出店するかということが大切です」と話す藤﨑氏。2018年来止まっていた新店舗のオープンを、コロナ禍で再開し、新店舗を増やしていきました。
3年前、39歳まで主婦だった藤﨑氏が「役員にしてください!」と横浜駅構内で、懇願するほどのマイナス決算は本年3月に、コロナ禍にも関わらず黒字化することができました。
その要因についてお話いただきました。
「予測不能な時代の中に遭遇しながら黒字化できた要因、それは当社のスピーディーな意思決定があったと思っております」。データの少ない状態で、その分析結果をもとにビジネスの意思決定や問題解決をするという次世代型の業務プロセスが、果たして緊急事態に機能するのかと疑問を呈します。
企業の意思決定では、ステークホルダーにエビデンスを示して、合意を得るプロセスが必要だが、不測の緊急事態においては、合理的に事を進めてスピーディーに判断、実行できる仕組みの方が、重要で
不確定な情報に左右されず、経営理念や経営指針に立ち返って意思決定し、臨機応変な機動力をもつことが最も重要だと話します。
稀有な道のりを歩んできた藤﨑氏にとっての「キャリア」について最後にお話いただきました。
キャリアに関して藤﨑氏が一貫して大切にしていたことは〝こだわらない心〟。
「私はこれまでこういう仕事に就きたいだとか、理想のキャリアを描くということは一切ありませんでした」。初めは衣食住を守る為に働く毎日。目の前のこと与えられた役割や環境に夢中になれる性分で、周りの人のために一心に働いていたら、たまたま今に至ったと話します。「こだわらないから、主婦から109の店員になれるし、居酒屋の経営もできるし、ドムドムハンバーガーの社長にもなれたのだと思います」。
多様な選択肢がある時代。どのようなキャリアを創っていくかということは非常に難しいけれども、キャリアの構築にこだわりすぎて、自分の可能性に蓋をしたり自分を殻に閉じ込めたりする必要はないのだといいます。
「失敗したらとか考えますが、失敗したらまたチャレンジしたらいい。ライフステージで考え方はどんどん変るけれど、その時は変わればいい」。
ご主人の病、109での失意。そこから見上げた時は果てしなく遠いように見えるものも、あきらめることなく、夢中になって歩んできたからこそ今日があるのだと。
変われる勇気を持つことの大切さを、最後に力強いメッセージとしていただき、会を締めくくりました。
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藤﨑氏の言葉は一つ一つに重みがあり、説得力があり、受講者のみなさんの心を動かした熱気あふれるご講演でした。明るく、人とのコミュニケーションを大切になさる様子が、ドムドムハンバーガーの経営理念にそのまま反映されているように見えました。
〝ドムドムの逆襲〟はまだまだ始まったばかりのようです、これからの活躍にますます興味が尽きません。
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