『ピンチをチャンスに -ミュージシャン亀田誠治の挑戦-』パイオニアセミナー開催レポート

イベント 2023/2/9

音楽プロデューサー / ベーシスト
亀田 誠治 氏

1964年生まれ 音楽プロデューサー・ベーシスト。これまでに椎名林檎、平井堅、スピッツ、GLAY、いきものがかり、JUJU、石川さゆり、ミッキー吉野、Creepy Nuts、アイナ・ジ・エンド、[Alexandros]、FANTASTICS from EXILE TRIBEなど、数多くのアーティストのプロデュース、アレンジを手がける。

2004年に椎名林檎らと東京事変を結成。

2007年と2015年の日本レコード大賞にて編曲賞を受賞。2021年には、日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。同年、森雪之丞氏が手がけたロック・オペラ「ザ・パンデモニアム・ロック・ショー」では舞台音楽を、2022年夏には、ブロードウェイミュージカル「ジャニス」の日本公演総合プロデューサーを担当した。

近年では、J-POPの魅力を説く音楽教養番組「亀田音楽専門学校(Eテレ)」シリーズが大きな話題を呼ぶ。

2019年より開催している、親子孫3世代がジャンルを超えて音楽体験ができるフリーイベント「日比谷音楽祭」の実行委員長を務めるなど、様々な形で音楽の素晴らしさを伝えている。2023年は6月3日(土)、4日(日)に開催。

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2022年4月21日に、パイオニアセミナー『ピンチをチャンスに -ミュージシャン亀田誠治の挑戦-』を開講しました。

本レポートでは、セミナー内容を抜粋してご紹介します。

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早稲田大学での思い出

 

どうも皆さんこんばんは。早稲田大学で社会人のみなさんに講義ができるというお話をいただいてですね、僕は87年に卒業したのかな、早稲田の第一文学部でした。とにかく早稲田が好きだったんですよ。

 

 

僕が大学生になった頃って、早稲田を出て世の中で大きいことをやる人は絶対に中退する、みたいな中退の美学があったんですよ。今振り返ると本当に甘っちょろかったと思うんだけど、「じゃあ俺も中退だ」、そんなつもりで大学に行き始めて、オリエンテーションも行かずにずっとベースを弾いたり、アルバイトしたりみたいな生活をしていたら、案の定留年しちゃいました。

 

その後ですね、もう一回語学を履修するために一学年下のクラスに入ることになったんですが、そこの仲間がめちゃくちゃ楽しい仲間でした。僕なんてある意味ちょっと年上のおっさんですよ。それにベースを担いでいつも学校行ってたんだけどそれがツボにはまってね、「亀田さん次の授業一緒に受けようよ」とか「居酒屋行こうよ」とかって誘われるうちに、「大学って楽しいかも」と思い始めて、ちゃんと授業に出るようになりました。

 

そして無事5年間かけて大学を卒業しました。しかもね、ちょっと大笑いで、僕らが大学生の頃は学費値上げのストライキ等もあって、一回自動進級っていうのを受けてて、本来なら6年間通ってしまう大学を一年の留年と素晴らしい仲間を得て卒業しました。

 

今でもその早稲田の友達とは年に一回ぐらいは、高田馬場に集合して、カラオケ行ったり意見交換したり、フェイスブックでも繋がって情報共有をするような関係が続いています。

 

年齢や世代に関係なく、難しい事っていうのは人間生きていく中で起きます。一生懸命やったり、思いを込めて何かを始めたりすると、必ず自分の思いと交わらないことが起きてしまう。まあ、逆に自分の思いと一つになれる人にも出会えたりもするんだけれども、なかなか思い通りに行かないっていうことの方が多い、僕はそう思います。

 

でも僕は今まで思い通りにいかなかったことがあったおかげで様々な人に出会えたり、様々な分野の仕事をすることができたので、そういったことに常に感謝しています。今日はみなさんに「ピンチをチャンスに」をキーワードにどうやって心の平和を保ちながら人と調和して前を向いて、一人でも多くの人の幸せが生まれるかっていうことを経験談からいろいろとお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

『日比谷音楽祭』

 

僕が今日ここでテーマとして取り上げたいのが、近年力を注いでいる、『日比谷音楽祭』というフリーイベント。 フリーの音楽祭、つまり無料の音楽祭ですそれを構想して立ち上げて、今は育てている渦中なんですけれども、まあいろんなことが起こるわその中で僕が学んだこと、そして学んでいることっていうのをみなさんにオープンに見せていって、いろんな大変なことはあるけど、それが良いことにもどんどん変わっていくんだよっていう、気づきの場になればいいなという風に今日は思っています。 

 

『日比谷音楽祭』は第1回目が今から3年前、2019年の5月に開催されました。会場となる日比谷公園には『日比谷野音』という野外音楽堂であったり、『小音楽堂』であったり、音楽を演奏できるステージがたくさんあります。さらに公園の中にはすごく美しい芝生のスペースもあり、その中にもステージを組んでさまざまなトップアーティストの奏でる音楽を聴いたり、あとは楽器体験なんかもできたりします。

 

やっぱり楽器屋さんに入るのってちょっと勇気がいると思うんです。だから楽器体験を気軽に身近な場所でできるといいなと思って、日比谷音楽祭では『音楽マーケット』っていう広場を設けました。そこでは楽器メーカーの方や、音楽学校で先生をやっているような方が集まって、様々な楽器を体験できるようにして、音楽の楽しさを知ることができます。それも無料です。

 

ステージで行われるコンサートも無料ですし楽器体験も無料。そしてお隣には東京ミッドタウン日比谷があるんですけれども、そこも一緒になって、なんと商業施設であるミッドタウン内にも野外ステージを2つ設けて、この音楽文化を広げていくっていう活動を応援してくださっています。

 

 

何ていうんでしょう。とにかくあの日比谷っていう街はそれこそ鹿鳴館の時代から、様々な西洋の文化が発祥した場所なんです。日比谷の街から生まれたものが脈々と受け継げられている歴史があり、日本の音楽の伝説を生み出してきた場所がいっぱいあるんです。ラッパがいたり太鼓があったりという西洋式の音楽隊の演奏が日本で初めて行われたのも日比谷公園なんです

 

ということもあって、日比谷公園は音楽の神様というかミューズみたいなものに見守られているような気がして、僕はアマチュア時代からずっとこの日比谷の街で映画を観たり、劇場に行ったりするのが好きだったんですね。プロになっても日比谷野音で演奏するのはとても誇りに思います。

 

 

 

 

セントラルパークでの気づき

 

僕が今57歳なんですけど、1964年東京オリンピックの年に生まれました。たまたま商社マンだった父が海外駐在になって、ぼくはニューヨークで生まれたんですね。1歳半の時には帰国したんですけど、50歳になった時に、なんて言うんでしょうね、赤ちゃん返りじゃないですけど、自分の原点に返りたいと思ってニューヨークに通うようになったんです。

 

僕の50歳ぐらいの時って、本当にいろんなプロジェクトがたくさん動いていて、仕事を止めるのも申し訳ないなと思いながらも一ヶ月だけオフをもらって、2週間はロサンゼルスでコライトっていう共同作曲を向こうのプロデューサーやアーティストと一緒にやって、あとの2週間はニューヨークでミュージカルやコンサートを観たり、バスケや野球の試合を観に行ったりしました。

 

自分の充電期間として、東京で毎日音楽制作をする中では味わえない空気を吸い込み、出会えない人たちと出会うということを50歳になってからずっと毎年繰り返してやっていました。

 

そして2年目あたりに、緑が綺麗な初夏のセントラルパークを散歩していたら、なんか風に乗って音楽が聞こえてきたんです。「あ、気持ちがいいな」と思ってゆっくりとした時間を過ごしていたんですけど、そうしているのが僕だけじゃないんですよ。しかも音の聞こえる方に向かって行列ができていて、「これ何に並んでるんですか?」って尋ねたら、「サマーステージっていうフリーコンサートが毎晩やってるんだよ。今日は何とかっていうアーティストが来て、何とかをやるんだよ」って。

 

僕も並んでみるとさまざまな人種の方や、年配の夫婦、ジョギング姿のお兄ちゃんとかが沢山集まってきて、無料のコンサートが始まるのを楽しみに待っているんです。しかも平日ですよ。これを見て素敵だなと思った反面、日本ではそういった音楽の楽しみ方を皆んなしてないなあって思って。

 

お爺ちゃんお婆ちゃんは「最近の若い子の音楽は分からない」みたいなことを言ってるし、若い子たちは「うわ、古。これいつの音楽?」みたいなことを言っている。世代やジャンルを超えて音楽を楽しむっていう機会が減ってきていると思ったんです。音楽を人と一緒に楽しむっていうような文化がすごく希薄になってきているなと思っていた時に、このフリーイベントに出会ったので、「いつか絶対日本でやりたい」って思ったんですよ。

 

 

 

 

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